体験的情報化の変遷(1)

2008年4月 5日 11:42

新年度に入りました。桜が満開!毎年のことながら良いものですね。1971年4月1日、私の証券人生が始まりました。早いものでもう37年間、証券市場で 勉強させてもらいました。ちなみに入社式を終えたときの日経平均は2421円でした。先輩から「この数字を覚えておくといいよ」と言われたのが懐かしく思 い出されます。これまでの証券人生を振り返ってみると「情報化」がどんどん進んでい言った時期だったといえます。おカネと情報は経済という車の両輪です。 これから四回にわたって私の証券人生で体験した情報化について書きたいと思います。

当時、証券会社の店頭にはおおきな黒板がありました。もちろん、いまのような株価ボードなどはありません。短波放送で流される株価をイヤホンで聴き ながら専門の人が黒板に株価を書き込んでいきます。上昇は赤、下落は青です。あの早口の株価放送を聴きながらどんどん書き込んでゆくのです。それはすごい 技術でした。もちろんクイックやロイターズ、ブルームバーグなどない時代。普通の人が株価を知るのは証券会社の店頭でこの黒板を見るしかなかったのです。 でも、いまの情報端末で見る以上の迫力を感じたものです。

私の配属となった国際部は黒板がありませんでした。その代り値紙(ねがみ)という銘柄名が印刷された大きな紙があり、やはり短波放送を聴きながら女 性が青鉛筆と赤鉛筆で株価を書き込んでいくのです。入社した年の8月15日、ニクソン・ショックが起こりました。アメリカ大統領のニクソンがドルと金の交 換を停止したのです。戦後続いてきたブレトンウッズ体制に終止符が打たれ、それから為替市場はいよいよ変動制に移行したのです。そのとき、値紙全面が真っ 青になったのを昨日のことのように覚えています。上司から、「こういうことはめったにないからよく覚えておくのだよ」と言われました。

国際部の通信はテレックスがほとんどでした。国際電話は高い。いまのように株価情報端末もありません。ファックスもなく、Eメールはもちろん存在し ません。とにかく各部にようやく電卓(と、いってもかなり大きかった)が一台ずつ普及し始めていたころです。多くの人はそろばんで計算をしていた時代で す。テレックスというのは、こちらがキーボードを打つと相手方で同じ文字がでる機械です。テレックス室がありそこにテレックスがたくさん並んでいました。 テレックスには相手方のベルを鳴らすボタンがあります。朝、取引が始まるとそれが一斉に鳴り出すのです。そうすると若手はテレックスのところに駆けつけ る。文字が流れてきます。「HITACHI NO YORITSUKI IKURA?(日立の寄り付きいくら?)」そうするとその若手は値紙のところにダッシュして株価をみます。それからテレックスに取って返して 「HITACHI YORITSUKI 300 YEN(日立寄り付き200円)」などと返事を打つのです。そうすると海外店はその情報を現地の業者に伝え注文をもらう。早く寄り付き情報を伝えたところ が注文をもらえた。そんな時代がずいぶん続きました。

2008年4月 5日 11:42 岡本和久 | きほんのき| コメント(0)

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